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●戦後と共に現れた名馬
戦後、日本の競馬の繁栄を願って日本中央競馬会(JRA)が創立されたのが1954(昭和29年)。その3年前、日本競馬史上に名を残す希代の名馬が東京競馬場、日本ダービーのターフを駆け抜けました。まだ日本製品に「Made in Occupied Japan(占領下日本製)」という刻印があった頃の話です。名前を「トキノミノル」。彼の現役時代からすでに50年以上経つ現在でも、彼の名前は日本競馬史にしっかりと刻まれています。ダービーの前走、皐月賞での単勝支持率(購入された単勝馬券で、トキノミノルの単勝馬券が占める割合)は73.3%と、現在でも皐月賞の単勝支持率レコードを保持しています。ちなみに、先日の日本ダービー優勝のディープインパクトが62.97%で歴代2位となっています。皐月賞時のディープインパクトを上回るほどの熱狂的支持があったことを示しています。人気だけでなく、その実力も途方もないポテンシャルを秘めたトキノミノル。しかし、彼の馬生は悲劇のうちに幕を閉じることになった。
●競走生活
トキノミノルのデビューは1950年(昭和25年)7月23日、函館競馬場だった。実はこの時、トキノミノルは「パーフェクト」という馬名だった。しかし、新馬戦で8馬身差+レコードの圧勝を飾ったことで、馬主の永田雄一が「ついに時が実るときが来た」と直感したことから、「トキノミノル」と解明したのだった。「時」とは、今も当時も競馬関係者の夢、日本ダービー優勝であろう。ちなみに、この永田雄一氏、映画会社の社長であったことから、後にトキノミノルをモデルにした「幻の馬」という映画を制作している。この「パーフェクト」という名前、この先のトキノミノルを象徴するのにピッタリの言葉である。
その後も札幌、中山で連勝を重ね、暮れの大一番「朝日杯」へ出走。これまでの戦績5戦5勝。何と、うち4勝はレコード勝ちという、当時の競走馬のスピードの常識を既に越えていたのだった。さらに初戦から、8馬身、2・1/2馬身、大差(10馬身以上)、6馬身、4馬身と、どの馬も相手にならない有様だった。トキノミノルはこのレースも危なげなく勝利。レコード勝ちではなかったが、2着のイツセイに4馬身差の圧勝だった。
そして年を越して明け4歳(馬は正月で1歳加齢する数え年計算&旧表示)になり、4月に休み明け最初のレースを迎えた。ここでは59kgという酷量を背負わされたが、再び2着イツセイに3馬身差+レコード勝ちで圧勝。次のレースもイツセイを2着に下し、いよいよ皐月賞へと駒を進めた。
もはや敵はいないと誰もが認められたトキノミノル。前述の通り、単勝支持率は73.3%の圧倒的支持。そして、期待通りの圧勝でまたもや2着イツセイに2馬身差+レコードで完勝。このイツセイという馬、この時点で4戦連続でトキノミノルの2着に甘んじるという結果。もしトキノミノルがいなかったら、この馬がこの世代の最強馬だったかもしれない。
そして迎えた悲願のダービー。現在は頭数制限のため、18頭までしか出走できないが、昔は制限がなかったため、この年も26頭という多頭数になった。単勝支持率の話をするなら、なぜダービーでは圧倒的支持を得られなかったのかというと、単純に頭数が多いために、どうしても票が分散してしまうからであった。それでもファンの期待はトキノミノルの勝利というか、すでに「どのように勝つか」というものになっていた。そしてゲートが開いた。トキノミノルはスピードの違いを見せつけ、ダービーですらレコードで圧勝してしまった。ここもなんと2着はイツセイ。さすがにダービーと言うこともあって、1馬身半差まで詰め寄ったが、やはり勝てなかった。朝日杯から実に5戦連続で1・2着馬が同じという珍しい記録でもあるのだった。この時、関係者が記念撮影をしようとしたら、場内にファンがなだれ込んできて、観衆に囲まれる中での表彰式となった。トキノミノルがファンに愛されていたことを象徴する珍事であろう。
ダービーを制覇し、秋の大一番「菊花賞」へ向けてファンの期待・陣営の期待は高まった。もはや三冠も確実だと思われていたトキノミノルだったが、突然の悲劇を彼が襲った。
●幻となったトキノミノル
ダービー制覇17日後、6月20日。突然の出来事であった。破傷風から来る敗血症により、トキノミノルはこの世を去った。トキノミノルは足に爆弾を抱えていたのだった。皐月賞制覇後、ダービーに向けて調教していたときに、何と裂蹄が判明。さらに慢性の膝の疾患も悪化したため、ダービー前は十分な調教が積めなかったのだった。それでも無理をおして、爪と蹄鉄の間にフェルトを挟んでまでダービーに出走したのだった。関係者によると、ダービーの時点で既に破傷風に冒されていたのではないかといわれている。
トキノミノルは非常に賢い馬だったと言われている。レースでも距離を測るのは騎手の役目だが、トキノミノルは自分で距離がわかっているかのように、自らペースを作ったそうだ。それでもスピードの違いで、ダービー以外では全てスタートから逃げ切りだった。ダービーでは、自分の限界を知っていたからこそ、スタート直後は他の馬に逃げを許したのではないだろうか。
トキノミノルの死は多くの人に悲しみを与えた。馬主の永田氏は「三冠を取ったらアメリカに遠征しようと考えていた」と語った。また、作家の吉屋信子氏が、毎日新聞へトキノミノルに関する一文を投稿した。
「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとるために生まれてきた幻の馬だ」
まさにダービー制覇のために生きてきたようなトキノミノル。死後も彼の伝説は色あせることなく残り続けている。東京競馬場には、今でも彼の銅像が人々を迎えている。

(東京競馬場 トキノミノル像前)
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