●近代競馬の幕開け 1780年のエプソム・ダービー創設や1793年のジェネラルスタッドブック刊行以降、英国における競馬競走はそのエンターテインメントとしての地位を確立しつつあった。元々は貴族同士の娯楽としてお互いの馬を走らせるスタイルが主流であり、現代のように、毎年決められた日に特定のレースを行うという習慣はなかった。競走馬のほとんどが5歳を過ぎてからのデビューであったり、距離も4マイル(6400m)という現代では見られない超長距離が主流であった。 しかし、19世紀に入ってからは、3歳馬限定の距離2400mで行われるダービーが注目を集めるようになり、競馬のスタイルが一気に現代の様式へと変化していった。そして、18世紀に創設されたダービー・セントレジャーに加えて、1809年に創設された1マイル(1600m)の3歳限定戦、2000ギニーの3レースが、3歳限定戦の象徴的レースとなったのである。これらが三冠競走、トリプルクラウンと呼ばれるレースである。 そして、三冠競走が確立されてから約半世紀後の1853年、ついに史上初のトリプルクラウンが達成された。その主役がウエストオーストラリアンである。 ●インテリな馬主と大調教師 ウエストオーストラリアンが生まれるまでには、それに関わる人間たちの間でちょっとしたドラマがあった。馬主のジョン・ボウズ氏は、未成年で父ストラスモア伯爵の財産を相続し、若くして一財産を手に入れた人物であった。ストラスモア伯爵は以前セントレジャーに勝っており、競馬に大きな情熱を注いでいた。そのため、相続財産の中には多くの競走馬も含まれていた。だが、非嫡出子だったために爵位は継承できなかった。しかし、19世紀になって、労働者階級の地位が向上するにつれて、貴族の称号も徐々にその威厳を失っていったので、爵位を受け継ぐかどうかはさほど問題ではなかった。 ボウズ氏は非常に賢い青年で、ケンブリッジでの勉学や、その後の国会議員としての仕事が多忙を極めたため、競走馬の管理はもっぱら後見人に任せっきりで、彼は馬主としてよりは、議員としての生活が主体であったという。そんな彼が競走馬を売却せずに所有し続けたのは、彼の父の遺言と、彼の友人であるジョン・スコット調教師との友情があったからである。 ジョン・スコット調教師は、最初の大調教師と言われている。まだ調教師という仕事が確立されていなかった時代で、中には、調教とレースの騎乗を全て1人でこなす人もいたくらいであった。彼の登場と成功によって、調教師という役割が脚光を浴びたのは間違いないだろう。ジョン・スコット氏は、元々は兄ウィリアムと2人で騎手としてデビューしたのだが、兄がクラシックを19勝もする大騎手となるのと対照的に、弟は体が大きすぎるために早い段階で騎手を引退し、調教師へと転身したのだった。ところが、1825年にホワイトウォール厩舎を開業して間もなく、なんとセントレジャー3連覇という偉業を達成したのだった。調教師としての大成功を収めたことで、彼の元には多くの大馬主から競走馬を託されるようになった。当時の首相であったダービー卿をはじめ、全盛期には1000頭を超える馬を預かったという。もちろん、一人で全てを世話したわけではなく、共同で管理した馬も含まれている。しかし、現在のサラブレッドの祖先はほとんどがスコット氏の管理馬であるほど、彼は優秀な馬を多く管理していた。結果的に、彼はクラシック41勝という前人未到の記録を打ち立てたのである。その驚異的な実績から、「北方の魔法使い」という異名までついていた。 スコット氏は、兄のウィリアムを専属騎手として乗せていたが、晩年になると兄はアルコール中毒がひどくなり、騎乗前に飲酒することも日常茶飯事となっていた。今では考えられないが。特に決定的になったのが、1846年のサータットンサイクス(Sir Tatton Sykes)のダービーであった。サータットンサイクスはスコット氏の管理馬ではなかったが、1846年の2000ギニーとセントレジャーに勝った一流馬であった。しかし、ダービーでは、ウィリアムが朝から酒を飲んでいたためにスタートで大きく出遅れ、首差の2着という惜しい結果に終わった。もしウィリアムが素面であったなら、最初の三冠馬はこのサータットンサイクスだったかもしれない。 そして、サータットンサイクスから7年後の1853年、奇遇にも同じメルボルンを父とするウエストオーストラリアンが、トリプルクラウンを達成するのであった。ちなみに、ウエストオーストラリアン(West Australian)という名前は、父のメルボルン(Melbourne)がオーストラリアの首都シドニーより西に位置することから来ていると言われる。 ●魔法使いと最強馬 1852年10月にデビューしたウエストオーストラリアンは、初戦は2着に敗れるものの、2日後のグラスゴーSでは同じ相手に完勝し、実力を証明した。デビュー前から評判の高かったウエストオーストラリアンは、この勝利で一躍ダービーの本命となった。その後は年内はじっくり休養し、年が明けた1853年の2000ギニーをぶっつけで迎えた。ここを危なげなく快勝したウエストオーストラリアンは、ダービーでも6対4(1.5倍)の大本命となった。すでに「ザ・ウエスト」の愛称で親しまれていたウエストオーストラリアンだったが、オーナーのボウズ氏はダービー当日に競馬場に現れなかった。このころの競馬場では、妨害行為や不正行為、八百長が横行しており、すでにダービーを三度勝っているボウズ氏はそれほどダービーへの執着もなく、競馬場でのもめ事を嫌ったといわれる。 大本命でレースに臨んだウエストは、最後のタッテナムコーナーで他の2頭との叩き合いになり、首差交わしてウエストが1着でゴールした。オーナー不在でも、会場は大歓声に包まれ、その場にいたスコット調教師は5回目のダービー制覇を祝福された。そして、三冠最後のセントレジャーも3馬身差で圧勝し、見事史上初のトリプルクラウンを達成したのであった。数々の名馬を手がけたスコット氏も、「私の生涯の最強馬です」とウエストを称えた。この後は、予定されたレースを相手が棄権したために、相手なしの単走レースを2度行い、この年は5戦5勝の無敗で休養入りした。 年が明けて、まずはマッチレースに挑んだウエストだったが、ここでも相手が棄権したために単走で勝利。次のアスコット・トリエニアルSではファンダーディッケンに4馬身差で快勝。そして、翌日に行われた当時のイギリス最高峰レース、アスコットゴールドカップに出走したのだった。ここでもキングストンを頭差捉えてレコードタイムの勝利。前年の三冠制覇と合わせて、このレースで主要レースの四冠制覇となった。アスコットゴールドカップは現在も行われている、歴史深いレースである。その後、グッドウッドの300ソヴリンSでコブナットに20馬身差をつける圧勝を飾り、結局、2戦目以降の10連勝で引退となった。 ●その血は海を渡り受け継がれる 引退後、ボウズ氏はウエストを他の馬主に売却した。彼はすでに競馬への情熱を失っており、この頃には引退した所有馬を全て売却していた。その後、様々な馬主を経て、最後はフランス皇帝ナポレオン3世の所有馬として、21歳で他界した。競走馬としては、19世紀最強と謳われるウエストだが、種牡馬としては期待されたほどの成績は出せなかった。後に、彼の息子オーストラリアンがアメリカに渡り、オーストラリアンから4代目の孫には、アメリカ史上最強といわれる伝説のマンノウォーが生まれる。ウエストオーストラリアンの血統は、アメリカでマッチェム系を繁栄させる基礎となり、現代でもしっかりと受け継がれている。 |
ウエストオーストラリアン West Australian(UK)
牡 鹿毛
馬主 | John Bowes(ジョン・ボウズ) |
生産者 | John Bowes(ジョン・ボウズ) |
調教師 | John Scott(ジョン・スコット) |
戦績 | 11戦10勝 |
獲得賞金 | 不明 |
主な勝ち鞍 | 1853 2000ギニー 1853 エプソム・ダービー 1853 セントレジャー 1854 アスコット・ゴールドカップ |
血統表 | |||
Melbourne 1834 |
Humphrey Clinker 1822 |
Comus | Sorcerer |
Houghton Lass | |||
Clinkerina | Clinker | ||
Pewett | |||
Cervantes Mare 1825 |
Cervantes | Don Quixote | |
Evelina | |||
Golumpus Mare | Golumpus | ||
Paynator Mare | |||
Mowerina 1843 |
Touchstone 1831 |
Camel | Whalebone |
Selim Mare | |||
Banter | Master Henry | ||
Boadicea | |||
Emma 1824 |
Whisker | Waxy | |
Penelope | |||
Gibside Fairy | Hermes | ||
Vicissitude |