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●伝説の名手・悲劇の名手
 フレッド・アーチャー(Fred Archer)は、19世紀後半にイギリスで活躍したジョッキーである。しかし、彼はただの名ジョッキーではない。一つの時代に名を残すだけでも、大変な偉業であるのは間違いない。恐らく、競馬というスポーツが始まって以来、彼を超えるジョッキーは今でも現れていないのかもしれない。そう思わせるほど、彼の残した成績には目を見張るものがある。だが、私が最も彼について強く思うことは、その悲劇的な人生である。何と弱冠12歳で障害のレースに初勝利。17歳で始めてチャンピオンジョッキーになり、20歳でダービーを制覇。チャンピオンジョッキーになること17回。驚くべき速さで頂点に上り詰めた名手は、29歳の秋、自らの手でその人生に幕を落とした。その早すぎる成功と比するような、あまりにも衝撃的で悲劇的な終末であった。彼を死へと駆り立てたものは何だったのか。誰にも追いつけない、光のような速さで頂点を極めた彼には何が見えたのだろうか。

●全てが驚異的のヒーロー
 アーチャーが競馬の世界に飛び込んだのは、まだ幼さの残る11歳の頃、1868年であった。彼はマシュー・ドーソン調教師の見習い騎手としてデビューした。12歳時には障害のレースで初勝利を飾った。平地のレースでの初勝利は13歳の時である。前述のように、17歳にして早くもイギリスのチャンピオンジョッキーに輝き、20歳でダービージョッキーの栄冠を得る。そして、17歳から29歳までの13年間、彼は1度も首位騎手の座を譲ることはなかった。通算8084回騎乗し、勝利数は2748勝、その勝率は何と34%という、驚異的な数字を示している。ちなみに、日本が誇るトップジョッキー武豊でも、勝率は20%をわずかに超えるほどである(通算12897回騎乗2686勝)。武豊はアーチャーの1.5倍多く騎乗しているにもかかわらず、未だに彼の勝利数に追いついていないのだ。もちろん、勝率20%という数字も非常に優秀である。普通のプロジョッキーでも10%を確保するのをかなり困難としているのである。通算勝利数の世界記録(9530勝)を持つアメリカのラフィット・ピンカイJr騎手でも生涯勝率は20%程だった。アーチャーは1885年に年間246勝の記録を樹立。この記録は1933年にゴードン・リチャードに破られるまで、約半世紀も破られなかった。また、大レースの勝利数も多い。エプソム・ダービー(イギリスダービーは度々こう呼ばれる)には5度優勝し、その他のクラシックをあわせて何と21勝もしている。これが50歳に近い大ベテランならいざ知らず、30歳にもなっていない若いジョッキーが打ち立てた記録とは、にわかに信じがたいほどである。しかし、これらの数字は事実であり、ここが彼の登りつめた到達点なのだ。とある人は
「アーチャーが乗ればカタツムリでも勝てる」と彼を賞賛した。これほど彼を上手く表現した言葉もないだろう。
 アーチャーは当時、超がつくほどの人気者であった。男性からの信頼が厚く、女性からの熱狂的な人気もものすごかった。アーチャーにあこがれる少女ローラを主人公とする小説の中では、「イングランド中の女性の半数は彼を愛していた」とまである。しかし、彼には少々気むずかしい所があったといわれる。ピーター・ラウゼイ著『殿下と騎手』という小説の中で、彼は「競馬場の暴君。特に見習い騎手や、経験の浅い騎手には特に厳しかった。おまけに馬には情け容赦なかった。鞭や拍車で血を流させることがしばしばあった。また、ひどい守銭奴で、周りからはティンマンと呼ばれていた。気位が高く、人付き合いが苦手で、ユーモアを解せず、概して無愛想だった。」と酷評されている。だが、同小説の中では彼の偉大さについて「彼は1億人に1人の男だった。かつて存在した中で最高の騎手。教育もなく、字も読めなかったが、天才だった。実に頭が良かった。レース後には、自分の騎乗ぶりがどうだっただけではなく、他のみんなの展開まで事細かに記憶して話してくれたものだ。それに、あれほど勇敢な男もいなかった。だからよけいに、今でも彼が自殺したことが信じられない。」というふうに描かれている。
 アーチャーが、自分の中で最も感動的な勝利は何かと聞かれたとき、彼はすかさず1880年のベンドア(Bend Or)によるダービーだと答えた。彼の数々の勝利の中には、偉大なる三冠馬オーモンド(Ormonde)や、19世紀最強の呼び声の高いセントサイモン(St. Simon)といった歴史的名馬と挙げたものも多い。その中から彼がベンドアのダービーを選んだのには理由がある。この時のダービーは今でも伝説として語り草となっている。それは、実はアーチャーが本番の1ヶ月前にミューリーエドリスという馬に右腕を噛まれて大怪我を負っていたのだ。そのため、アーチャーは鉄の副え木を当てて片腕だけの勝負となってしまった。さらに治療で休んだために、数日で6kgも減量せねばならず、彼は体力気力共に限界まで追い込まれていた。ベンドアも直前に肢を痛がり、出走さえ危ぶまれるほどのバッドコンディションであった。人馬共にギリギリの状態でレースは始まった。案の定、ベンドアはスタートから行きっぷりが悪く、最後の直線前のタッテナム・コーナーでは馬群に押し込まれてしまう。逃げるロバートザデヴィルとの差が開いていき、もう誰もがベンドアの勝利をあきらめた。ところが、そこから奇跡が起こる。片腕しか使えなくても必死に追うアーチャーに応えるように、闘争心を奮い起こしてベンドアが差を詰め始める。残り100ヤードで、騎手は腕が使えないことを忘れて、鞭を取ろうとするが取り損ねてしまう。それでも諦めず、必死に追い続ける。ロバートザデヴィルのロシター騎手は、鬼気迫る追い込みを見せるアーチャーとベンドアのプレッシャーに恐れをなして、致命的なミスを犯す。一瞬であるが、後ろを振り返ってしまい、バランスを崩してしまうのだった。アーチャー相手には一瞬のミスも許されるはずもなく、アーチャーはそのわずかに見えた勝利に向かって必死に馬を追う。まさに神業というべき奇跡の追い込みであった。そしてついに2頭並んでゴールを迎える。アタマ差の勝負で、勝利の女神はアーチャーとベンドアを祝福したのだった。馬と意思を通わせているような、アーチャーはそんな人知を超えたようなジョッキーであった。

●訪れる悲劇
 彼の味わった悲しみ・苦しみは、まるでそれまでの成功の反動を受けたかのような、栄華の代償とも映るような悲劇的なものであった。
 アーチャーは1883年に師匠のドーソン調教師の姪ヘレンと結婚する。翌年1月には息子が産まれるが、不幸にもこの世の空気を数時間も吸わないうちに亡くなってしまう。そのショックからか、ヘレンは病に伏してしまう。夫の看病の甲斐あって何とか回復し、再び身ごもるが、生まれてきた娘と引き換えのように息を引き取ってしまう。たたみかけるように襲った最愛の長男と妻の死。さらに、彼は騎手としては宿命とも言える減量に悩まされ続けてきた。彼の身長は178cmと、騎手にしてはかなり大柄にもかかわらず、レース前には50kg付近まで落とす必要があった。自殺の2週間前のレースでは、59kgあった体重を8kg減らさなければならず、あまりにも過酷な減量なので命を落とすのではないかとまで心配された。その上、腸チフスにかかっていたという。肉体的にも精神的にも、限界まで追いつめられた彼の決断は、ピストル自殺であった。彼の栄光の人生は、大きな苦しみと悲しみと共に、1886年11月8日、幕を閉じた。

●最高のパートナー
 アーチャーの活躍した時代には多くの歴史的名馬が出現し、彼もその多くに跨っていた。特に有名なのが先ほども出てきたオーモンド・セントサイモン・ベンドアの3頭である。特に彼が絶賛していたのが、セントサイモンであった。オーモンドは英国三冠馬であり、18世紀の名馬ベスト10に選ばれるというかなり優秀な競走馬である。そのオーモンドを差し置いて、クラシックに勝っていないセントサイモンを推したのである。セントサイモンの項目で紹介するが、アーチャー曰く「セントサイモンはもう二度と本気で走らせない。まるで暴走する蒸気機関車のようだ。」とまで評価している。これは、調教の際に試しに拍車で脇腹を叩いてみたところ、突然これまで見せたこと無いスピードで走り出してしまい、名手アーチャーでさえ落ちないようにつかまっているのが精一杯だったという時の話である。
 アーチャーはもしかしたら神様に天才騎手としての運命を授けられたのかもしれない。誰よりも馬に感情を伝えることができ、馬の感情を理解し、誰よりも多くの名馬に恵まれた、しかしその代償は大きかった。きっと彼が騎手を続けていれば、間違いなくその偉大なる記録はさらに伸び続けただろう。だが、もはや夢は途絶えてしまった。未だに彼を超えるようなジョッキーは現れていない。いつか、アーチャーを超えるようなジョッキーが現れてほしいと、ささやかに願っている。

 余談だが、日本に岡潤一郎という騎手がいた。彼もその才能を評価されていながら、若くしてこの世を去ったジョッキーである。彼は1993年2月16日にレース中の落馬事故が原因で亡くなった。まだ24歳という非常に若い年齢であったが、デビューからの5年間で225勝と、若手の中でも非常に速いペースで勝ち星を挙げており、今でも生きていれば武豊の最大のライバルになれた騎手だったといわれる。アーチャーとは違い、自らが望まぬうちの不幸であったが、アーチャーのようにその先を見てみたかったジョッキーである。